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歴史文献としての「日本国憲法」と「九条」


平成29年6月17日(土)

我が国の朝野は、
「日本国憲法」を「憲法」として、おおまじめに読んきた。
もちろん、憲法=法規だと思っているので、それに縛られている。
しかし、「日本国憲法」を
これを「書いた者」の意図を伺うことができる「歴史的文献」
として読み込めば、
そこに、昭和二十年九月二日の降伏文書調印から我が国を占領統治した
連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーと
GHQ(連合国総司令部)のスタッフ達が
大東亜戦争で直面した日本という国家の強さと
それを解体しようとする彼らの目的が浮かび上がってくる。
そして、同時に、
この目的のために消された我が国の歴史と陸海軍将兵の勇戦奮闘が甦るのである。

従って、この観点から、「憲法九条」の背景を見つめる。
そこに見えてくるのは、
日本軍のとてつもない強さと、
日本軍に完敗して戦場から逃げた軍司令官マッカーサーの屈辱である。

五十歳の若さでアメリカ陸軍の参謀総長に就任するという輝かしい経歴を持つ
ダグラス・マッカーサーは、
六十一歳になった日米開戦時には、
フィリピンのアメリカ極東陸軍の司令官をしていた。
そして、十二月八日未明、日本海軍の真珠湾奇襲の報に接したマッカーサーは、
人種的偏見から有色の劣等な日本人は飛行機の操縦ができないので
ドイツ人が飛行機を操縦していると思い込んでいた。
しかし、その時、台湾から発進した帝国海軍のゼロ戦、一式陸攻そして九七式陸攻合計一〇六機がフィリピンのアメリカ軍のクラークフィールド基地に襲いかかり、
ヨーロッパ戦線で撃墜されたことの無かったB17など一〇八機のアメリカ軍機が破壊され撃墜されてアメリカ軍の航空戦力は一挙に半減し、
十二月十三日には航空戦力が壊滅する。
マッカーサーは、このクラークフィールドでの、一〇六機の日本軍機の攻撃を、
七五一機の攻撃であると本国に虚偽報告をしている。
負けたことの言い訳を嘘ででっちあげたのだ。
さらに、十二月十日からルソン島北部と南部から上陸してきた日本軍はとてつもなく強く、
アメリカ軍は蹴散らされて退却を繰り返し、
十二月二十二日に、
マニラ西部のリンガエン湾に上陸した本間雅晴中将に率いられた第十四軍が
マニラに向けて進軍を開始するにおよび、
マッカーサーは、
早々にマニラを放棄してバターン半島とコレヒドールに逃げて立て籠もる。
翌年一月十日、本間雅晴第十四軍司令官は、
バターン半島に立て籠もったマッカーサーに降伏勧告を伝達する。
マッカーサーは、降伏勧告を無視するが、
軍司令官が日本軍に生け捕りにされる状況になってきたので、
先に前線から逃亡するフィリピンのケソンに、秘密軍事顧問料の支払いを要求し、
ケソンはニューヨークの口座からマッカーサーに五十万ドルの軍事顧問料を支払って逃亡する。
続いて、マッカーサーも逃亡した。
以上、マッカーサーの、
ワシントンにおける、輝かしい軍事官僚としての経歴と、
フィリピンの戦場における、有色人種と軽蔑していた日本軍にコテンパンに負けて生け捕りにされかかって逃亡した屈辱と虚言癖を述べた。
彼に虚偽報告をさせ敵前逃亡をさせた日本の陸海軍は、
マッカーサーにとって、とてつもなく強かったのである。
そして、「日本国憲法」は、
この日本軍に負けた屈折した男の指揮の下に書かれている。
さらに、
負け戦における日本軍の恐ろしさを身にしみて知ったのもアメリカ軍である。
ガダルカナル、ラバウル、パラオのペリリューとアンガウル、サイパン、硫黄島、
そして沖縄における日本軍の戦いは、アメリカ人の想像を絶した。
つまり、死ぬのが分かっているのに戦いを止めない日本軍、
さらに、死ぬために突撃してくる日本軍は、アメリカ人にとって戦慄すべき軍隊であった。

「戦後という時期」は、現在に至るも、
戦場でアメリカ軍が日本兵を射殺し、火焔放射器で焼き殺し、
日本の婦人がサイパンの崖から身を投げる影像が、
毎年、八月十五日が近づけば、我が国のTVで放映されるが、
あの影像は、アメリカ軍が、日本軍が弾も武器も食料も無くなって戦うことができなくなってから、
本国における戦意昂揚と予算獲得の為に撮影したプロパガンダ影像であり、
日本軍との戦闘の実相を映したものではない。
第一に、アメリカ軍が日本軍との戦闘の最前線に使った黒人兵は
一人も映っていないではないか。
日本軍兵士の回想に、最初に来る敵は全て黒人なので、
「俺はアフリカと戦争をしているのかと思った」
とあるのを読んだことがある。

さて、我らは、
マッカーサーのGHQに「太平洋戦争」という呼称を強要されて
そのまま使っているので、
太平洋の島々の負けた戦いしか知らず、
「大東亜」つまりアジアの大地での実態は視ていない。
日華事変の直後に召集され七年近く北支と南支で戦い、
昭和二十年の終戦後に伍長で帰還した作家伊藤桂一氏の戦場の回想である
「草の海 戦旅断想」に、
終戦後の八月十七日のことを書いた次のような記述がある。
 
槍兵団の一部が、駐屯地から北上を続けていたとき、
新四軍(共産軍)に包囲されて
「武器を捨てれば貴隊を保護してやる」という勧告を受けた。
その勧告に対して部隊長は
「道をあけろ、あけねば武力で通る」と応じて、
交戦して撃退し、敵の小銃七十挺を鹵獲して、悠々とある町に着いた。
すると、いく分当惑して寄ってきた中国人が言った。
  あんたらは、もう戦争にまけているのだ・・・
  いつまでも勝っている気分でいられちゃ困ります。

また、他の箇所で、伊藤氏は、
戦争が終わったという知らせが来た時、
捕虜のイギリス軍将校が負けたと泣いたので、日本軍将校が彼を慰めた。
すると、負けたのは日本だとの知らせが入り、
今度は、しょげた日本軍将校を、泣いていたイギリス軍将校が慰めた、
という情景も書いている。

以上は、伊藤桂一氏の体験した情景であるが、
中国戦線、インドシナそしてインドネシアにおいては、
八月十五日にも日本軍は最強の軍隊として存在していた。
この地域を支配したい蒋介石軍と共産党軍、
この地域に帰りたいイギリス、フランス、オランダにとって
この最強の健全無傷な日本軍が武装を解除するか否かが最大の関心事であった。

従って、この日本の帝国陸海軍を武装解除させることが、
昭和二十年九月二日に調印された「降伏文書」の主目的となっており、
さらに、五か月後の昭和二十一年二月四日~十二日に起草された
「日本国憲法」の主題、主目的となったのである。
従って、この「憲法」を書いた者たちは、
特に「第二章」という「九条」だけの一章を設けて
戦争の放棄と、陸海空軍の不保持と交戦権の否定を特筆しているのだ。

つまり、「降伏文書」と「日本国憲法」は、一体の文書であり、
あのマッカーサーは、
「降伏文書」で日本に約束させた陸海軍の武装解除を
さらに追撃して
「日本国憲法」で徹底し、かつ固定化しようとしたのだ。
それが、「前文」と「九条」であり、
さらに、日本人を家族と社会と国家から遊離させる「人権規定」である。
天皇と国家と社会と家族との強い絆が、日本人の強さの源だからである。

以上の通り、
「日本国憲法」と、その象徴である「九条」は、
マッカーサーが骨身に染みた
「日本軍の強さ」、
「天皇を戴く日本の強さ」
を解体する目的で書かれた復讐文書であり、
同時に、
祖国のために日本軍兵士が如何に勇戦奮闘したのかを示す文書である。

アメリカ軍だけは、確かに太平洋で勝った。
そして、まだまだ余力があり、もし本土決戦になれば、
太平洋の島々のように
アメリカ軍の前で日本軍が簡単に崩壊すると我々は教えられている。
それ故、我が国の本土決戦は、
軍国主義の発狂、きちがい沙汰、だというように思い込まされた。
果たして、そうであろうか。
確かに、我が日本は息絶え絶えであった。
しかし、こちらが苦しいときは、敵も苦しいのだ。
アメリカ軍も、
決死の日本軍との、今まで以上の本土での決戦に耐えられたであろうか。
以下は、
「大東亜戦争と本土決戦の真実」(家村和幸著、並木書房)より、

フィリピン戦線で勝ったアメリカ軍師団長は、
降伏した第十九師団長長尾中将に次のように語っている。

  戦場で相見えた仲でなければ相手の偉大さは分かりません。
  あなた方日本軍の精強さに私たちは感嘆しています。
  日系市民志願兵で編成された第四四二部隊が樹てた偉大な業績は
  米軍内で驚異の的になっています。
  私たちは、この戦場でその実際を身をもって痛感しました。

大本営は、
昭和二十年三月、
要衝のラバウルを守りとおしている第八方面軍参謀の原四郎中佐を、
ラバウルから東京の大本営作戦課に呼び戻して本土決戦担当の参謀とし、
次いで激戦中の沖縄から決死の覚悟で小舟で脱出して
沖縄戦の地上戦闘の教訓を伝えた神少佐と森脇大尉の報告を元に
本土決戦姿勢を決定して、六月、参謀次長名をもって
「本土決戦根本義の徹底に関する件」を各部隊に通達し、
奇しくもドイツのロンメル元帥が、
ノルマンディー上陸作戦の直前に言った通りの決戦を
水際で実施しようとしていた。
ロンメル元帥は、ノルマンディーの海岸でこれを実施できなかったが、
大本営は、千葉県外房の海岸でこれを実施しようとしていたのだ。

  勝負は、この海岸で決まる。
  敵を撃退するチャンスは一度しかない。
  それは敵が海のなかにいるときだ。
  上陸作戦の最初の二十四時間が決定的なものとなる。
  この如何によってドイツ軍の運命は決し、
  連合軍にとっても、我々にとっても、
  「いちばん長い日」になるだろう。

六月十三日は、
「沖縄県民斯く戦えり 県民に対し後世特別の御高配を 賜らんことを」
との訣別電報を海軍次官宛てに打電して、
沖縄の小禄の海軍壕の地下の司令官室で自決した
大田 實海軍中将の命日である。
私は、千葉県茂原の大田中将の森と田園に囲まれた生家の横に建てられた
大田中将の慰霊碑の前で、
命日に行われる顕彰慰霊祭に参列した。
この慰霊祭は、茂原や市原など近隣の有志が執り行って今年で三回目を迎える。
慰霊を終えて、地元の同志の案内で、
茂原市内に残る本土決戦用の飛行機格納壕と滑走路跡を見て回った。
そして、翌日、外房の風が激しく鳴り波が押し寄せる九十九里浜に立った。
アメリカ軍の上陸適地は、この浜しかない。
相模ではない。ここがノルマンディーとなる。
そして、ラバウルを守り抜いた第八方面軍司令官今村 均大将が部下に語った、
敵が上陸したならば、
目をつぶって海岸に突進して、
敵の喉元に喰いつく、
という壮絶な決意を思った。
三年後の東京オリンピックのサーフィン会場は、
七十二年前の敵上陸適地、即ち敵迎撃適地、であった。

「憲法九条」は、まさに、
日本人、日本軍、の強さと
敵の恐怖を示す歴史的文書である。






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